40枚の握手券がそのまま体験的両数をせがむ数字的な意味だけを帯びているとは思えない。

40枚の権利と好きな女の子をまえにして、男は映画のワンショットのように一枚の紙切れからはじまる出逢いと別れを体験する、彼女がかすかに見えはじめた瞬間にクローズアップできないのだから静かに時は進み、肉体が彼女にトラヴェリングしてゆく、前進移動してゆく眼球が捉えている彼女の光景がいつしか瞳の側まで近づく、その一連の忘れ難い光景、一回のその体験は変わることのない反復ではない、ひとつひとつが無規格で秒数も色も違う、その連なり重なりでありただの回数の蓄積ではなくひとつひとつの小さな情景の破片だ。

肉体の移動がどこかカメラ的なフォームを帯びるのだから、
それはいつしか40枚で撮ったフィルムのようにもなる。

ただそれを映画的な視線に現像するのか、もしくは一瞬の滲みに現像するのか、人によるだろう。

不穏な忘れられない歪な情景、彼女に向かい動く視線の映画。

けれども、その視覚の装飾現像もついには、あの彼女の手のひらの感覚がいつしか消え失せ、瞳に触れたその感覚だけが残るかのように、無残な現像はそれでも繰り返し観てしまうに値するが、映画的な安堵には暴落しないのだ。