君は覚えているだろうか
しけもくの灰臭に触れた君の睫毛が
玄関先で喚いた朝方の霧に
かわいい君の胸を悲しみで膨らましてあの時
君は僕をこうやって指で於いて
僕の額の最後の希望を微笑んで強く睨んだんだ
甘い残酷さを瞳いっぱいに溜めて
僕は言ったね
「君は僕のかあさんでない 君は僕のねえさんでない 君は僕のいもうとでもない ましてや恋人でも
君は僕をかまってくれなかったすべての女を僕に与えるように
すべての女を僕にぶつける 僕のすべての女に君はなりたがってる
けれどね 愛しい馬鹿な子 そんな女たちでなく 今君こそ僕のただ一人の女なんだよ 君が 君こそが」
さあ遅れるぞと掴んだ手は恐いくらいに熱くやわらかくわがままに拒んだ
駅までの道 軋む工場の音が僕を誘き寄せる
切符代だと僕に小銭を渡して 君は定期に瞳を伏せた
ああ 僕は工場だ 君は女学校だ
「君の父さんにいつも電車賃ありがとうございますとお礼を言わなきゃいけないね 君のお菓子代が僕の運賃に化けてしまうのだから」
途端に君は顔を真っ赤に怒らせて「私のお小遣いだもの」だなんて幼い主張を僕にくれる
君が恐くなるくらいに愛しい幼く脆い主張を口にする度
君の唇が世に在るはずのない美しい赤を通わせていた
これが赤か これが血の色か
犬の鼻先に唾で溶かした飴を垂らして君は 靴の紐を解いて「おいしそう?」だなんて僕に囁き遊んだ
どこで覚えた悪戯か 震える舌先に別れだけが湿って
ああ 嫌な子だ その瞳でまた僕を生かす気だ ああ 嫌な子だ その唇で僕をまた許す気だ ああ 嫌な子だ ああ 嫌な子だ その胸でまだ僕を愛す気だ
僕の胸の内に君というかすかな息の根を口移して 無責任にこんなにも無邪気で責めたてる
犬の尻尾をからかっては くしゃくしゃ それを抱き寄せて僕をやさしく睨む
恐喝する工場の軋みが僕を呼ぶ
「もう 行かなきゃいけないよ」
君は僕の切符を飴で汚れた指で破いたら
定期をスカートのなかに仕舞い込んで これでもう工場へも学校へも どこにも行けないんだわ だなんて云うから
どこかへ逃げましょうだなんてわがままを云うから
僕は君だけは生きなければいけないって悟ったんだ
夕刻だけを待ち焦がれるように瞳を熱く震わせて
忘れちゃやだなんて 泣いちゃうだなんてもう泣きながらに云うから
スカートを掴むかわいい手が乱暴に震えてみせて
君が
この世の何よりも強く恨むように
僕をやさしく睨みつけるから
だめだ 一緒にはいられない そう云った僕は君を殺してしまいたかったんだ
はじめて一緒に死にたいと生きたいと思ったんだよ
君は逃げるように自働改札を駆け抜けて あの女学生の群れに帰っていった
僕を一度も振り返らずに
彼女が見知らぬ女になってゆくのがわかった
さよなら、さよなら、さよなら、
君は僕の愛しい走馬燈だ。